ABEMA Prime「反出生主義って何だ?出産は親のエゴか?」への反応
- Asagi Hozumi|穂積浅葱

- 2021年12月30日
- 読了時間: 37分
更新日:2024年12月26日
概要
このブログポストでは、インターネットテレビ局ABEMAの報道番組「ABEMA Prime」が5月27日の放送で扱った反出生主義特集を要約し、それに関する私の個人的な見解を示します。
この特集は日本語圏の外からもある程度の注目を集めましたが、言語の壁によって海外に内容が伝わっていないので、このブログポストがその改善の一助となることを期待しています。
この特集には、森岡正博教授やむち氏など、日本で反出生主義と呼ばれるものを扱う人々がゲストとして呼ばれ、彼らが番組のレギュラーキャストと意見を交換する様子が生放送でストリーミングされました。
注:出演者の発言は適宜要約してありますので、言い回しが実際の発言と異なっている場合があります。また、番組の一部を取り上げていますので、特定の発言が前後の文脈を欠いて記されている可能性があります。このブログポストに記されていることを出演者への批判や非難の根拠にしないでください。
番組に登場した人々(敬称略)
お笑いコンビ「EXIT」の二人をはじめとするレギュラーキャストに加えて、日本語で「反出生主義」と呼ばれるもの(antinatalism)を研究する森岡正博教授、反出生主義者を自認するタケシ氏とむち氏、「反出生主義を知りながら子孫を残した」とされるフリーライターの秋山悠紀氏が登場しました。
イントロダクション
初めにVTRで反出生主義と呼ばれるものが何なのかについて大雑把な説明がなされました。
反出生主義は「自分だけでなく人間の出生自体に反対する思想とされて」いる、という点がまず気になりますね。
反出生主義者(は最近名乗りにくくなっていますが、とりあえずここでは antinatalist(s) の訳語として単純に『反出生主義者』を充てることにします)を名乗る者として、私は自分自身の出生の道徳的な正当性は反出生主義に関係ないと考えています。
上のナレーションが言う「人間の出生」全般は個々の事例において仮に為されてしまった場合正しくなるか誤りになるか分からないから「為されてはならない」ことなのであって、自分自身の出生は(その個々の事例の一つであるから為されてはならないことではあったけれども)今となっては為されてしまったことであり、為されることによって非存在者だった私を存在者に変えてしまったので、反出生主義の射程から外れてしまった(反出生主義を純粋な形で自分自身に適用することはできない)、と考えるべきだと私は思います。
まどろっこしい書き方で申し訳ありませんが、私の言いたいことを言うにはこう言うしかありません。
また、反出生主義をヒト以外の有感生物に適用すべしとする主張は残念ながら一般的ではなく、この特集でもヴィーガニズムを内包する反出生主義は一度も言及されません。
しかし、反出生主義が全有感生物に適用されることは当然です。
反出生主義という語そのもののぼんやりと合意された定義に「ヒト以外の有感生物にも適用される」ということは含まれていないのが現状ですから、この特集で反出生主義がヒトだけの問題として扱われたことは番組の落ち度とは言えません。
しかし、種差別に無自覚なヒトが(反出生主義者を名乗る人々の間でさえ)あまりにも多いことは指摘しておかねばなりません。
これ以降、このブログポスト内での「反出生主義」という語は、特に断りのない限り「反ヒト生殖主義」という意味で使うことにします。
そして、私がとる立場(現在では『無生殖主義』という語によって最も正確に指し示されます)はここでいう「反出生主義」を含むものであり、「反出生主義」そのものではありません。
反出生主義という語の定義についての文句はここまでにして、本題に入りましょう。
まずは反出生主義が自殺奨励思想ではないということがVTRの中ではっきりと示された点は重要ですね。
また、しばしば子の視点を欠いて語られる生殖を「きちんと子供目線で考えようよ」というむちさんのコメントを番組の初めで聞けたことも良かったです(これ以降の出演者の発言から分かるように、この発言は出演者の印象には残らなかったようですが)。
ただ、「出産は親のエゴだと思いますか」という問いへのむちさんの答えと思われるコメントを「子を持つ親に対してこんな言葉まで――」という言い回しで導入したのは少々印象がよろしくありません。
番組で特集を組んで取り上げる「ハンシュッショーシュギとかいうなんか新しくて面白そうな思想」を面白く見せるための演出なのだろうだとは思いますが、時折Twitterで話題になる「ベビーカーを押している子持ち様を罵倒する暴力的な自称反出生主義者」を連想させる言い方です。
最後の「苦しみがあるから快楽が~」というのは……まぁ、よくあるナンセンスな反応ですよね🤷
スタジオにいる人々の議論を開始するのに必要なVの締め方なのでしょう。
多分。
いや分からんけど。
イントロダクションへの反応
VTRを1本観ただけで、今まで見たことも聞いたこともない思想の趣旨を理解して的確なコメントをすることを期待してはいけない、ということは強調しておかねばなりません。
それを踏まえて言いますと、りんたろー。氏の言う「人間が及ぼす悪影響のことは考えだしたらキリがない」「人間は愚かで未熟で幼稚なんだから、それを踏まえて『八十何年めちゃくちゃ楽しみますよ』みたいな誕生肯定」はヒトが作られた後の話です。
反出生主義は彼の言及する様々なことよりも前にそもそもヒトが作られるべきではないと主張するものですから、りんたろー。氏はここで論点を逃しています。
また、「お互い歩み寄って分かり合おうとする姿勢」とは恐らく反出生主義の支持者とそうでない人たちが(互いにある程度の妥協をして?)共存できればいいねという意味なのでしょうが、それは端的に不可能です。
我々反出生主義者は「奴隷制は禁止されるべきだ」と全く同じ強さで「生殖する権利は誰にもない」と言っています。
反出生主義に関して「歩み寄り」を促すことは、奴隷を使役する権利は誰にもないと訴える奴隷制反対派の人々に「賛成派とお互い歩み寄って共存を目指そうよ」と言うことと同じです。
ただ繰り返しますが、このVTRが恐らくりんたろー。氏にとって初めての反出生主義との遭遇です。
彼が的を射ない発言をしたのは彼が悪人だからではなく、彼にとってあまりにも新しい思想である反出生主義を理解するのに十分な時間を与えらないまま発言を求められたからだと考えるべきでしょう。
VTRを観た直後に感想を求められてここまでスラスラと話すことは私には到底できませんから、正直言って彼の能力が羨ましいです😳
柴田氏の「どう思うかは自由ですからねぇ」という発言はこの後も違う形で幾度となく繰り返されますが、これもりんたろー。氏と同じく奴隷制賛成派/反対派の話に繋がります。
奴隷制の全面廃止を訴える側と「奴隷を使いたくないなら使わないでいいよ、ただし我々の奴隷を使う権利は守れ」側を両方ともある程度満足させる妥協点というものは存在しません。
というかこの特集全体がほとんどそのパターンに終始した気さえするのですが、これについては後半で詳しく述べる機会があると思います。
反出生主義とは何か:苦痛回避論とロシアンルーレット論
EXITの二人がそれぞれ感想を述べた後、ゲストとして出演するむち氏と森岡氏が紹介されました。
スタジオでの議論に先立って、「賛成/反対どちらでもない立場、専門家」として紹介された森岡氏が反出生主義の概要を説明しました。
反出生主義を支える議論についての森岡氏の説明は完全に適切だと思います。
「苦痛回避論」は聞き慣れない言葉ですが、それは単に苦痛は悪であるという前提にあえて名前をつける必要がなかったためなのでしょう。
苦痛は悪か、というのはそもそも疑似問題ですし。
苦痛という言葉の理解の仕方の齟齬がこの前提に関してAN対非ANの無用な衝突を生んでいるような気がするのですが、これについては別の章で詳説します。
納得していない様子のパックン氏も、さりげなくいいポイントを突いていますね。
「苦痛があっても人生を肯定できるというような場合には特に問題ないと思います」というむちさんに対する、「ただその保証がないから生まないほうがいい、と?」という応答です。
人生の質を正しく評価できるのは当然その人生を生きている本人だけであり、(1)少しでも苦痛があれば人生全体が損なわれるのか、(2)少しくらいの苦痛は快楽で中和できるのか、(3)1や2と違う評価基準があるのか、他人には決して分からないからその本人の存在を勝手に始めるのは誤りである、という不可知論的な生殖に対する態度に彼は共感していないようですが、理解はし始めているように見えます。
生まないことの不幸 vs 生まれることの不幸
存在しない者の利益(正確に言えば損害の不在)よりも生む側の利益を優先したいらしいパックン氏は、道路の建設による立ち退きの例を挙げて反出生主義に対抗しようとします。
パックン氏の「他のみんなが快楽を得られるなら1人が苦しんでもいい」という論理は集団暴行や強姦など様々な犯罪を容認しますが、それでもいいのでしょうか。
実際のところ、きちんと考える時間さえ持てば、問題は個人が感じる苦痛の強さであって苦痛を感じる/快楽を感じる個人の数ではないということに彼も同意するはずです。
また彼は、反出生主義者が生殖を望む者たちを犠牲にしようとしていると非難しますが、彼の言うことをこう書き換えれば、これが要するに道徳そのものを否定しようとする試みであることをきっと分かっていただけるでしょう――
「奴隷たちはもちろん奴隷制の廃止を望むだろうが、奴隷所有者全員に『奴隷を使役するな』と言って結局みんなを犠牲にしようとしている。奴隷を使役する側の幸福を犠牲にしようとしているのが納得いかない」。
あらゆる道徳的な規範とそれに基づく法令は多かれ少なかれ個人の自由を制約するものであるはずです。
暴行の禁止は他者を殴って楽しみたい者たちの自由を、窃盗の禁止は正当な対価を払うことなく物を所有したい者たちの自由を、奴隷制の禁止は奴隷を使役することで楽に仕事を終えたい者たちの自由を制約します。
「ヒトを新たに作る権利は誰にもない」と言うことが反出生主義の押し付けにあたり、その押し付けは間違いだというのならば、「奴隷を使役する権利は誰にもない」「自分の快楽のために他者に暴行を加える権利は誰にもない」という主張に対しても同じ態度をとらなければなりません。
道徳的規範はその特性上必ず “押し付け” られるものですから、それが押し付けられているという事実を指摘することはその正当性の否定に全く役立ちません。
もちろんパックン氏の言うように「生まれる子の大半が幸せ」であるかも知れない(ただし我々という意識はその生まれる子の意識に “なる” ことができないので絶対に分からない――この無知の自覚こそが反出生主義の核だと私は思います)という点に奴隷制と出生奨励主義の違いがあると言えないこともないのでしょうが、自分とは別の意識が宿っていそうだと考えられる人体を新たに作って苦痛を感じる可能性に晒すことに関してあまりにも無頓着ではありませんか。
出生奨励主義者とでも呼べるような人々でさえ、そのほとんどが意識を持ち得る生体組織がペトリ皿の上で作られる実験には慎重な倫理的配慮を求めるはずです。
同じことをヒトの体内ですることに彼らが同じ抵抗を感じないのは、出生奨励主義的な洗脳を抜け出すことができていないために “自然な” 形での意識の発生に違和感を持たないようになっているからなのでしょう。
パックン氏の「生む側の幸福を犠牲に」(≒押し付け)論は、生殖肯定論者が生殖について考える時に生まれる側の視点を完全に欠いている、あるいは生まれる側の視点を持っているつもりでも視野が狭すぎることを如実に示しています。
それに対して、むち氏を含む反出生主義者たちは本当の意味で生まれる側の視点に立って考える――正確に言えば、本当に生まれる側の視点に立って考えることなどできない自らの能力の限界を認識する――ということができています。
多くの生物学的な親は子の幸せを願いながらその子を作るのでしょうけれども、彼らは自分たちの能力が有限であることが大問題であることに気付かないまま生殖してしまいます。
長い歴史と近年の「出産否定」
反出生主義的思想の歴史について森岡氏に話してもらう予定が初めからあったのでしょうか、パックン氏が唐突にその口火を切ります。
反出生主義「的な考え方」を人類は2000年以上抱えてきている、とさりげなく定義の断定を避ける言葉選びをした森岡氏ですが、独自に提案した分類の仕方では例として挙げられたような誕生否定や輪廻否定を反出生主義に含んで(『反出生主義とは何か ― その定義とカテゴリー』を参照)います。
冒頭のVTRからも分かるように、特集の制作者もそれを踏襲しています。
対して我々は実務的な観点から無用な誤解が招き得る現実的な危険を避けるために森岡氏の言う「出産否定」だけを反出生主義と呼ぶべきだと主張しますが、私は思想史の専門家ではないので反出生主義「的な思想」の歴史について何も言うことはありません。
この特集の中でここはあまり重要でない部分です。
誰もとれない責任を作り出すという選択
特集の後半には、反出生主義を知りながら出産したとされる秋山悠紀氏が加わりました。
「次世代に対してそう思わない社会を作ったりそうならないように頑張」らなければならないのは、次世代が存在する場合だけです。
次世代を苦痛から守りたいという目的を本当に果たしたいのであれば、その次世代を作らないことによって彼らを100%の成功率で守ることを選択しなければなりません。
そういうシンプルな答えにはやっぱり行き着くなって思います😉
秋山氏は「出産は親のエゴか」という問いに対しては「100%エゴだ」と認めていますから、恐らく生まれることのリスクをある程度適切に——あるいはある程度不適切に、と言うべきでしょうか——認識したうえで生殖を正当化しようとしています。
「次世代に対してそう思わない社会を作」ったり「そうならないように頑張」ったりしないといけないこの世界に新たなヒトを作り出すことの暴力性は、自らの欲求を満たすための代償としては安いものだ、と判断したということでしょう。
その代償を実際に払う羽目になるのが自分ではなく子孫だという事実をそれほどまでに軽く捉えられることは驚きですが、これは恐らく “きちんと考え” たつもりになって生殖することを決めて実際に生殖した全てのヒトに当てはまることです——本当にきちんと考えれば、自分の無知と能力の限界に気付いて生殖しないことを選ぶはずですが。
ところで、ここに来てようやく「出産は親のエゴか」という特集のタイトルが盛んに言われ始めますが、出産という語を使うのはよろしくありませんね。
この言い方では、反出生主義が問題とする生殖がまるで出産機能のある身体を持つヒト――多くの場合女性――だけの問題であるかのようにミスリードしそうです。
反出生主義は思想の自由の侵害か
柴田氏がむち氏に秋山氏への質問を求めたことから、この特集で最も “胸糞悪い” 会話が始まります。
(このブログポストを書く過程で一番精神的に苦しかったのがここです😭)
反出生主義の中身を理解しないまま「生殖は個人の自由だ(だから生殖は個人の自由ではないものとする反出生主義は間違っている)」と叫ぶ出生肯定論者の言動を見かねた森岡氏が最後に発言してくださったのは良かったですね——それを受けてもなお、兼近氏を除く出演者の皆様がきちんとANを理解できたようには思えませんが。
以前ANへの反論を試みる記事に応答するブログポストで書いたように、反出生主義者は「生殖する道徳的権利は誰にもない」=「生殖は個人の自由ではない」と主張します。
それに反論したいのに「生殖は個人の自由だ」という前提に依拠する理由を持ち出してしまっては、論点先取の循環論法にしかなりません。
柴田氏の “押し付け論” は完全に的外れであり、無効です。
そもそも「生殖は個人の自由ではない」と反出生主義者が言うだけでそれを押し付けだと言うのであれば、「他人を奴隷として使役する権利は誰にもない」という現代においては当然正しいとされる言説もまた押し付けです。
さて、これが “押し付け” であることはこの主張の正当性を揺るがしているでしょうか?
秋山氏は反出生主義が「手段を目的化」しており、「飛躍しすぎ」だと言いますが、何を言っているのかよく分かりません。
反出生主義の目的は「意識が苦痛を経験しないようにすること」、手段は「有感生物が生まれないようにすること」ですよね。
どこに手段の目的化が起きているのでしょうか。
どちらかと言えば、前章で扱った「次世代のために世界をより良い場所にするしかない」というような主張をする生殖肯定論者の方が目的と手段を取り違えています。
次世代を苦痛から守りたいはずなのに、わざわざ彼らを生み出して苦痛を感じる可能性に晒すことを是認した上で「頑張って色々改革してその可能性を下げていこう」と言うのです。
その可能性を0にする手段があるのにそれを選ばないのは、手術で怪我を治すためにわざと他人の腕を肉挽き機に突っ込んで大怪我をさせ、手術が必要な状態を作り出すのと同じ態度です。
目的志向性の欠落か、生殖の欲望を正当化するための苦しい言い訳か、あるいはその両方でしょうか。
苦痛とは何か
これは雑な言葉遣いに起因する問題なのではないでしょうか。
「苦痛」と「苦痛をもたらす事物」がはっきりと区別して使われていない現状が、定義上必ず避けられなければならないはずの苦痛がまるで「人生に伴うものなのだから避ける努力をしなくていい」ことであるという勘違いを助長しているような気がします——そもそも『苦痛は人生に伴うものなのだから人生を始めていい』という言説自体が全くもって意味不明なのは言うまでもありませんが。
苦痛という語の正確な定義については様々な表現の方法があるでしょうが、私は暫定的に「純粋で自明な悪性を持つ主観的経験の質」としています。
これは身体的苦痛や精神的苦痛などと呼ばれる苦痛モドキではなく、身体の傷の痛み/窒息の苦しみ/不安/怒り/悲しみの全てに共通する悪さ、言い換えればこれらの事物が悪いものである理由としての “純粋にネガティブな” 経験の質を意味します。
苦痛を感じる能力を持つものが一切ない世界を考えてみれば、この「純粋で自明な悪性」が理解できることでしょう。
ヒトをナイフで刺すという行為が悪いこととされるのは、刺されたヒト+そのヒトに関して好意的な感情を抱くヒト+そのヒトの負傷もしくは死亡で諸種の損害を被るヒト(の意識たち)が苦痛を感じる能力を持ち、この行為が彼らに苦痛をもたらすと思われるからです。
このヒトたちに苦痛を感じる能力がなければ、ヒトをナイフで刺す行為は全く悪くないことになります。
苦痛は世界で唯一それ自体悪いものであり、他のものを悪くします(純粋な悪性)。
そして、その悪性は他の誰でもない、苦痛を経験する意識本人だけが観測できます(自明な悪性)。
全体を振り返って:生まれる側の視点を持てない人々
人々は忙しすぎるのでしょうか。
落ちこぼれと見なされるのが嫌だから、他の皆と同じように仕事/結婚/生殖することを目標としてヒト社会を生き抜くのに力を使いすぎて、自分以外の意識たちが自分とは全く違う環境で全く違う経験をして全く違うことを感じているのではないかと推定する――そしてそのように推定することしかできず決して知ることはできない自分の構造的な無知に気付く――余裕がないのでしょうか。
これから作られるヒトに宿る意識たちが自分たちとは別の意識なのだということを考えられないわけではないはずです。
そうでなければ、友人に誕生日プレゼントとして贈るものを選ぼうとする時に「これ私は大好きだけど、あの人も同じように気に入ってくれるかな」と不安になることはできません。
それでも多くの人々は、自分の子孫が自分とは別の意識であることについては面倒臭くて考えないようです。
特集全体を通して、出演者の多くが当然のように「まだ存在しないヒトはすでに存在するヒトと同等の配慮に値しない」という態度をとっていることがうかがえました。
このような人々が「後世に遺す地球が劣悪な環境であってはならないから、我々は我慢すべきことを我慢して環境改善に取り組むべきだ」という環境保護活動家の主張を理解できるのかどうか訊いてみたいものですが、恐らくこれに関しては「当然理解できる」という答えが返ってくるのではないでしょうか。
違いは配慮の対象である非存在者がいずれ存在を開始するのか、永久に存在しないのかという点にありますね。
生殖肯定論者は、自分たちが善いこと/悪いことをするためには、その行為の結果を被る他者が在らなければならないと思っているのでしょうか。
いずれにせよ、この特集は出生奨励主義的な洗脳の根深さを如実に示し、私を少しばかり失望させました。
生殖以外のことに関しては「個々の意識が経験する苦痛を最小化すべし」という原理に則ってものを考えられるはずの人々が、生殖についてのみ「生物学的な子を持つことは善いこと」「生殖能力を行使する権利は無条件で保障されるべき」「子に何が起ころうとその子を作ることは正しい」などという根拠のない**********に善悪の基準を求めてしまうようです。
一度生殖してしまうと、我々は可愛い赤ちゃんだけではなくその赤ちゃんが成長した結果としての青少年や大人をも作り、選べない生物種/出身国/家族など諸々の条件を与えたうえで、失敗を避けるために努力してこの世界を生き抜くことを強いることになります。
生物学的な親になるヒトは子供のためにある程度環境を整えることはできても、子供に苦痛のない人生を与えるために無限の可能性をコントロールする能力を持ちません。
そのような無知無能な者が自分以外の意識に「存在を開始する」という(私が考え得る限り)最も重大なことをしていいと思っているのは驚きですが、生殖に関しては何も考えずにただやればいいと教育されてきたのでしょうから仕方ないことではあります。
知識を欠いているヒトを責めることはできませんよね。
学ばせてもらう機会が運よく訪れなければ、それを学ばなければならないということさえ知り得ないのですから。
生殖に関する “常識” のおかしさも同様です。
楽な道のりにはならないと思いますが、出生奨励主義的常識モドキの誤謬を効率よく人々に知らしめる方法を見つけるために努力を続けたいと思います。



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